君の膵臓を食べたい

 ウチの子供たちも漫画が好きだ。「鬼滅の刃」や「東京リベンジャーズ」などは子供の影響で読んだ。世代が違っても面白い。今どきの想像力には子供からの情報で出会わせてもらうことが多々ある。

 2017年くらいだったか、息子が中学生になったころ、珍しく小説を読んでいた。「君の膵臓を食べたい(住野よる著)」だ。面白いというので読んでみた。青春小説なのに、オジサンが読んでも泣ける読書体験だった。その小説の何が、 すっかりオジサンになった私の心をやわらかくしたのだろう。

 哲学者の柄谷行人は「言葉と悲劇」の中で、単独性と個別性(特殊性)というものは違うといっている。類(一般性)と個(特殊性)で考えると単独性(この私)というものはわからないといっている。

『固有名詞でない他の言葉は「・・・である。」というふうにして、つなげていくことができます。意味が分かるということは、ある意味では別の言葉でいいかえられることですね。固有名詞は「・・・である」といいかえることができないのです。いいかえられるものは「一般性」に行くことはできるけれど、固有名詞は、どの言語に持っていったとしても、そのままですね。したがって、それは「普遍的」であるのです。なぜそれが普遍的なのか。それは交換できないものであり、代替できないものであるという「単独性」としてあるからです。』-「言葉と悲劇」より引用ー

 小説「君の膵臓を食べたい」は「地味なクラスメイト」くんだった男子高校生が、病院で余命数年の病気を持つクラスメイト 山内桜良の「共病文庫」という一冊の本を拾うことで、「秘密を知ってるクラスメイト」くんになるところから始まる。

 主人公は教室の隅で本ばかり読んでいるような高校生男子だが、感性が優れていて、理論的に会話ができる、スマートな男子だ。名前を呼ばれたとき、呼んだ人が自分のことをどう思っているか想像できてしまうという特殊な感性がある。だから桜良に呼ばれる名前を「地味なクラスメイト」くん、「秘密を知ってるクラスメイト」くんというように自分の世界で変換している。自己完結した引きこもり気味の世界の中で、自分の固有名を訳している。

「秘密を知っている(特殊性)クラスメイト(類:一般性)」という訳し方では、主人公に単独性というものはわからない。また、クラスメイトという距離感では、桜良の単独性を認めることができていないので、桜良を名前(固有名)で呼ぶことが出来ない。他者の単独性を認められないので、自分自身の単独性を認めることもできないでいる。ように見える。

だけど小説の残りページが少なくなるころ、ミスリードに気づく。お互いの単独性を最初から感じていたのは、小説を読んでいる私ではなく、この男子の方だったことがわかる。二人の関係を、容易にクラスメイトや友達や恋人という類(一般性)と個(特殊性)で考えていなかったのは、この男子の方だったことがわかる。桜良への気持ちを単独性で表現できるのは、この男子だったことがわかる。そしてそのすべてのことは桜良にも・・・。

「君の膵臓を食べたい」とは、初めての、固有の、何にも似ていない、いいかえられない自分の中の感情を、固有名で呼んでいるのだ。

『私が他者を知覚し認識するというのと、その者を固有名で呼ぶのとはちがっている。前者はたんに個体としての他者であり、後者は単独性としての他者である。そして、後者がないならば、われわれは「他我」に出会うことはない。実は「我」についてもそういえるのだ。「我」の単独性は、私の名前(他者が命名した)によってしか開示されないのである。そして「我」が単独的であることは、「我」の社会性と切り離すことができない。』ー「探求Ⅱ」より引用ー

 子供たちは中学生から高校生へとなるにつれ、社会性を持つようになっていく。その時期にこのような小説を読み、特殊性⇔一般性という思考回路ではなく、単独性⇔普遍性という思考回路に出会えることは、貴重な読書体験だと思う。大人たちに教わることなく、自分たちでこのような小説に近づいて行って体験している。また、そういう「かけがえのない(単独性)親友や恋人」との関係をつくれるようになっていくだろう。

 いや、いくつになっても良い体験だったと思える。逆に教えてもらったのは私の方なのだ。そういう意味で読むことが出来てよかった名作だ。

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