国宝

 先月、映画「国宝」を観てきた。

 私は歌舞伎の舞台鑑賞には縁遠く、2011年頃、当時の市川亀治郎を井上ひさし「雨」の舞台で見たことがある程度だが、「子供時分から鍛えられてる歌舞伎役者は、声も動きも一味ちがうなぁ」と魅了された記憶がある。最近は何といっても鬼平犯科帳の長谷川平蔵を演じる松本幸四郎に魅了されている。映画だけでなく、スカパーに加入してドラマを見ている。

 小説「国宝」(吉田修一著)を読んだのは2021年文庫本が発売された時期でした。帯に浅田次郎氏激賞・林真理子氏絶賛と推薦されていたことで手を伸ばし、アッという間に読了した。小気味のいい語り口調の文体が読みやすく、期待を超える小説だった。歌舞伎の演目などにも詳しい人なら、もっと小説に描かれている世界が理解できて楽しいのだろう。私にその教養がなく残念だ。

 舞台芸術には映画などの再生芸術にはない「同時性」があるので、ボクシングの試合を見るような集中力が必要とされて、舞台上の役者の生身に自分の身体が反応する良さがあるけど、映画「国宝」は、舞台よりも映像が役者に寄る事が出来て、細かな表情にフォーカスがあたるので、内面の感情をその目から読み取れたりして、こちらの感情が反応してしまうという、また違った良さがあった。

 でも、なんでこれほどまでに大ヒットしているのだろう。すでに興行収入、実写邦画で歴代2位だそうだ。

 以前仕事で、ある映画編集者の自宅建築をお手伝いしたことがある。その方が「幸せの黄色いハンカチ」の黄色いハンカチが風になびくシーンや「南極物語」の生きていたタロとジロが高倉健に向かって走ってくるシーンのように、いい映画にはその映画のテーマが凝縮された圧倒的なカットがあるということを教えてくれた。「国宝」にもそういうシーンがあった。

 以前の投稿で、数学者の岡潔が、社会は自然界の一部でしかなく、さらに自然界を包むように法界があってこの包含関係が外に向かうほど関心を集めるのが難しくなるといっていることを紹介した。国宝のストーリーは私に、一人の主人公:喜久雄がこの3つの世界に別様に存在することを感じさせた。

 もう一度紹介する。『自他の別のある世界を社会といった。時空の枠のある世界を自然界ということにしよう。理性の働くところも観念のいいあらわせるところも皆自然界である。自然界のものには、まだしも関心が持ちやすいのだが、ここを超えるとなかなか関心が持てなくなる。 欧米流にいえば、存在とでもいうのかもしれないが、ここは禅の言葉を取り入れて「法」と呼ぶのがよいと思う。法の世界を法界という』ー岡潔「絵画」よりー

 喜久雄は任侠の家に生まれ、少年の時に父親を目の前で殺されるという、とても受け入れることのできない現実を体験する。そして少年喜久雄は自らの正義のため、中学校の朝礼で目の前に現れた父親の仇をドスをもって仇討ちしようとするのである。この時点で喜久雄の自我は任侠の親への尊敬や背中の刺青にある。だが喜久雄はその自我をもったまま社会を生きていけない。

 その喜久雄が歌舞伎役者の二代目花井半次郎に引き取られ、国宝:小野川万菊により、社会の外側に広い世界を感じることができる。また、かけがえのない存在として、半次郎の息子:俊介と出会う。俊介には社会がなく、自然界が歌舞伎の世界なのだ。喜久雄は俊介との出会いにより、俊介:歌舞伎と自分が主客未分になっていき、この自然界に居場所を見つける事が出来るようになる。

 しかし、半次郎のピンチに代役として俊介ではなく喜久雄が選ばれることで、2人は自然界から社会に連れ戻され、社会の中で分けられてしまう。俊介を失った喜久雄は、歌舞伎の世界を社会のように感じ、自他を分け、自分の自我に苦しめられるようになる。自然界にも自分の居場所を失ってしまう。

 その時、万菊により、社会や自然界を包むように存在する法界へと導いてもらうことになるのだが・・・。

『真我とは法界における一つの法であって、主宰者という働きの一面と、不変のものという本質の一面とを持っている。真我(主体である法)が関心を一つの法(客体である法)に集めているとき、主宰者の位置は対象のところにある。』ー岡潔「絵画」よりー

 映画「国宝」では、三代目花井半次郎が舞台で、雪の中を舞う。半次郎が主宰者という働きではなくなって、不変のものになって、客体である歌舞伎と一体になっていることを、美しい映像と音楽で見事に描き切っている。そのーシーンはひと時、私たちを日常の社会から法界へと誘い、私たちの前に「国宝」が現れる。 圧巻だった。

 そして、映画が終わるとき、この圧倒的なシーンの雪が、あの日少年:喜久雄に降っていたやさしい雪を思い出させるのだ。化粧をして衣装を着て、芸を身に着け、国宝となった半次郎の中に、あの日の喜久雄はいなかった。あの雪の降る日、父親を助けようとして止められた、あの日の美しい喜久雄はいなかった。それが、なんか、ものすごく悲しいのだった。

 映画「国宝」の魅力は、私たちが、私たちの情が、この悲しみに、喜久雄の悲しみに同化して、この悲しみをわかるところにあるのではないだろうか。

 もう一度、観に行こうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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