登山と下山

 富士山に登ったことはありますか?

 私は1度だけ、30歳の時に登った。青春時代の同級生と、そういえば富士山に登ったことないねという話になり、その夏に8人の仲間で登った。天気に恵まれ、ご来光を拝むこともでき、いい思い出になっている。山登りは登るときに息が上がるが、下るときの方が足がきつくなる。富士山も下りが大変だった。登った分だけ下りなくてはいけないので、達成感があるような笑顔で記念撮影をする頂上は折り返し地点でしかなく、登山は半分しか終わっていない。山登りをすると、そういう当たり前のことを体験し、身体で理解する。

 吉本隆明は「最後の親鸞」の中で、『知識にとって最後の課題は頂を極め、その頂に人々を誘って蒙を開くことではない。頂を極め、そのまま非知に向かって着地する事ができればというのが、おおよそどんな種類の知にとっても最後の課題である。』と書いている。

 この「最後の親鸞」を書いた吉本隆明について、「逝きし世の面影」を書いた渡辺京二はこういうことを言っている。『要するに読書する人間というのは世界普遍性に向かって上昇していく自然過程なんだ。問題は世界の最高思想まで上昇していこうということから反転して、何にも知らない、小学校しか出とらん、それで一生ただ結婚して、子供つくって働いて、そして年取ってから子供に背かれてというふうな、ごく平凡な普通の人間の一生、これが価値があるんであって、だから世界思想の頂にまで登り詰めたら反転して、そういう庶民の、大衆の在り方に着地しないといけない、と最後の親鸞に書いてあるわけだ。僕にとってはその言葉が座右の銘というかね、自分の勉強の、文章を書くこと、思想的な営みというものの根本的な在り方を規定している言葉で、そういう意味では吉本さんという人は二人といない私の先生なの。』

 親鸞は阿弥陀仏によって選ばれた人だけでなく全ての人が等しく救われると説きました。

 渡辺京二は続けます。『衆生を全部救いたい、こう阿弥陀さんが願いなはったから、お前たちはそのまま全部助かってんのよと、親鸞さんは理屈を言っているわけだ。そうするとこの世に阿弥陀さんというのがおるのか、阿弥陀さんが願いなはったから俺たちは救われるのか、じゃぁ親鸞さんの前に出てきた阿弥陀さんってどんな顔していたのか、どんな姿しとったのかと思うとさ。結局この世の実在世界の形を取ったんじゃないかねぇ。つまり言ってみりゃ山河というか、山あり川ありね。花が咲いとるし、虫もおるわけたい。風も流れとるわけたい。そういう実在世界が阿弥陀さんなんじゃないかねぇ。だから、実在世界の一人の存在として、お前はそれで肯定されているのよということになるんじゃないかと思うんですね。』 

 『生命ということをとるならば、これはもう人間からあらゆる動物から植物から岩や石やそういうものを全部含めて全部これは一つの生命体だと言っていいんですね。だから救いというのはそういう実在世界の中で、ほんのちょっとの間ね、滞在を許される、その滞在というのはさ、先祖があり子孫があるようにね、ずーっとつながっていくんだけど、そういう無数の生命のつながりがひしめいて、その中の自分は存在だってことで、それが本当に見えてきてね、本当に見えてきて「いいじゃないかそれで」と。そういういいなと思う時に阿弥陀さんが出現するわけでしょう。』ということを話している。

 近代以前、自然豊かな日本では、自分の暮らしの近くにある高い山に登り、眼下に広がる川や田畑や道や建物を見たときに、自分を含む人々の営みの及ぶ範囲が理解出来たのかもしれない。また富士山を見て、あの白いきれいな雪山の上には神様がいて、私たちを見守っているのかもしれないと思ったのかもしれない。一度登って、確かめてみようと思ったのかもしれない。登山は体にきつく、自分がこの雄大な自然の小さな一部でしかなく、またそのことを体感して理解できたときに、逆に自分の心の広さを感じる実感が持てたのかもしれない。

 25年前に一緒に富士山に登った仲間の一人だった妻と、山を下りてきた時に飲み食べた「ビールとほうとう」がうまかったなと、今でも話すことがある。いいじゃないかそれで。

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