時代劇
先日、娘から少し前の映画「ラーゲリより愛をこめて」を薦められてAmazonPrimeで鑑賞した。人に映画や小説を薦めるのは難しい。時間を負担させるので、ハードルを上げた期待以上によくないと自分の感性も疑われる。娘の感性は信用できるものだった。
よく周りの人に好きな映画は何かという質問をする。好きな映画を聞くと、その人の内面が少し分かる気がする。
私が聞かれた場合、洋画なら「ブレイブハート」・「キングダムオブヘブン」・「ロビンフッド」と答える。どれも洋画版の時代劇と言っていい。邦画なら「千と千尋の神隠し」・「蝉しぐれ」・「コンフィデンスマンJP」だ。こちらも時代劇の「蝉しぐれ」が入っている。
「蝉しぐれ」は原作が藤沢周平の小説で、主演は文四郎を市川染五郎が、ふくを木村佳乃が演じている。私はDVDを持っているほどいい映画だと思っていて、人に薦めては貸している。
作品解説を引用すると『いつの時代にも、そして誰の人生にもある、父への尊敬の念、友との友情、不合理への憤り、筋を曲げないことの難しさ、伝えられなかった想い・・・・・・。日本人が忘れかけた気高さが、ここにある。』である。
小林秀雄は「無常ということ」の中でこんなことを言っている。
『生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら・・・・。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。』
『歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去のほうで僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。』ー無常ということより引用ー
私は仕事を通じて出会ったある素敵なお客様のことを思い出す。ご年齢は当時60歳くらいの方でした。会話からその方に本来の男子には生まれながらには備わっていない、鍛えられた男の人の「精神の清潔感」みたいなものを感じていた。何か武道でも長年やっていらっしゃるのかしら?と、聞いてみようかなと思っていたある日、自宅の応接兼書斎に通していただいたことがある。そこには池波正太郎、司馬遼太郎、藤沢周平、山本周五郎、など、書店の時代小説コーナーばりに文庫本が並んでいた。その方が愛読し、自分を作ってきた圧倒的な時間を感じたし、憧れたカッコイイ男というものを長い間実践してきていらっしゃるのだなと合点がいった。
現代人の私たちが、小林秀雄風に言うなら、人間の美しい形を思い出すのには、今や時代小説や時代劇という触媒が必要なのかもしれない。私たちが時代劇を好きなのは、共通する思い出を感じるからなのだろう。
「蝉しぐれ」で文四郎を演じた市川染五郎は、10代目松本幸四郎になって、おじの中村吉右衛門の後を継ぎ、あの池波正太郎「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵をやっている。先日、映画館で「鬼平犯科帳ー決闘ー」を鑑賞してきた。とにかくカッコイイ。この思い出は私達を一種の動物であることから救ってくれる。自分の感性をかけてお薦めする。

