消防車の絵

 ウチの子がまだ小学校低学年だったころ、授業参観日に学校での様子を見に行ったことがある。今の小学校は 私が子供のころより 校舎などの環境も授業の内容もずいぶんグレードアップしている印象だった。廊下や教室の壁に子供たちの図画工作や書道の作品が展示されていて、授業の合間にたくさん観ることが出来た。その時は消防車の絵が貼られていた、きっと消防署に写生会に行ったのだろう。

 その中に一つとても魅力的な絵をみつけました。だいたいの子は画用紙の枠の中に消防車を収めて描いているのに、その子の描く消防車は画用紙からはみ出してました。子供が近くから見上げた消防車の「迫力」が伝わってくるいい絵でした。

 なぜ、いい絵だなぁと感じるんでしょう。 

 数学者の岡潔はエッセイ「絵画」の中で、次のようなことを言っている。

『自他の別のある世界を社会といった。時空の枠のある世界を自然界ということにしよう。理性の働くところも観念のいいあらわせるところも皆自然界である。自然界のものには、まだしも関心が持ちやすいのだが、ここを超えるとなかなか関心が持てなくなる。 欧米流にいえば、存在とでもいうのかもしれないが、ここは禅の言葉を取り入れて「法」と呼ぶのがよいと思う。法の世界を法界という』

 岡先生は、社会は自然界の一部でしかなく、さらに自然界を包むように法界があってこの包含関係が外に向かうほど関心を集めるのが難しくなるといっている。

『真我とは法界における一つの法であって、主宰者という働きの一面と、不変のものという本質の一面とを持っている。真我(主体である法)が関心を一つの法(客体である法)に集めているとき、主宰者の位置は対象のところにある。』ー岡潔「絵画」より引用ー

そういう絵がある。

自他を別とする社会を、観念も理性も働く自然界を、飛び出して、消防車の「迫力」は夢中で描いたその子にあらわれる。描いたその子と消防車は主客が未分の状態になっている。夢中になって描かれた消防車は画用紙の幅に収まりきらない。

そのことがわかったとき、絵を見ているこちらもまた こころを広いスペースに連れて行ってもらえる。

『自分が他とは切り離された肉体の中にあるという感覚は、社会を生きていくための方便である。確かにそれは必要な便宜かもしれないが、ずっと続けるには窮屈である。そこでときに人は自然界の方に目を転じ、心を少し広い場所へ解き放つのだ。社会の事物に関心を集めていれば、自他切り離された自分の感覚が立ち上がる。自然の事物に関心を集めれば、自他通い合う自分の感覚が立ち上がる。「自分」の感覚は結局、心に浮かぶ事物への関心の集め方に応じて変容する。』ー「数学する人生」より引用ー

 多くの人が好きな絵、モネの『睡蓮』やセザンヌの『サントヴィクトワール山』などの芸術絵画も おそらく人をひととき 法界へと誘うのだと思う。人が美術館に出かけるのは、比較的容易に法界に関心を集めることが出来るからだろう。

 学者ではない私たちでも、最先端の数学や科学や文学をわかろうと集中するとき、アマチュアの私たちがスポーツをしたり音楽を演奏するとき、練習を重ね ZONEといわれるような集中した状態でパフォーマンスが出来たとき、この法界の中にいるのかもしれない。こころを広いところへ解き放とう。

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